教本『大自然の法則と人間の使命』
序章 本書の立場──在るものは在る
問いを立てる学と、問いの先から始める学
学問には二つの態度がある。一つは「それは在るのか」を問い続ける態度。もう一つは「在る」ところから出発し、「ではどのように能いているのか、どう活かすのか」を問う態度である。
従来の形而上学は、前者を選んできた。神が存在するか否か、存在するとすればいかなる意味においてか──二千年以上にわたり、その論証が積み重ねられてきた。学としては精緻である。しかし、その精緻さが人の生活を一日でも軽くしたかと問えば、答えは重い。
本書は後者に立つ。神佛(大自然)の存在を、証明すべき命題としてではなく、出発点として置く。これは論証の放棄ではない。順序の選択である。
「在るものは在るのだ」
この態度は、編纂側が採ったものではない。原典に、当来佛ご自身の言葉として記録されている。
【原典】実在の実在 『証言録』
萩の平安古に、山中清一さんという豚とウズラ(鳥)を飼っている方がおられました。その方は、早稲田大学の哲学科を専攻されたインテリで、当来佛に対して何時も理屈をこねて、一人で四時間も五時間も食いついておりました。当来佛は山中さんに、「あんたがどう否定しても、在るものは在るのだ。黙って聞け」とお叱りになりました。
──(中略)──そして、当来佛が、「あんたの所の豚小屋から火事が出るぞ」と言われました。山中さんが、「あんな火の気のない所に火事が出てたまるか」と笑っておりますと、ある日漏電のために火事となり、豚小屋が全焼し豚の丸焼が出来ました。予言(警告)は、的中しました。
── 出典:証言録 十五「長い道草をして」(小林等・萩市福井)「実在の実在」
※原典『証言録』では「御遷主様」と記されているが、同一の御方であるため、本書では「当来佛」に統一した。当来佛のお言葉(「」内)は原文のまま掲げた。
哲学を修めた者が、四時間も五時間も論を重ねた。それに対する答えは、反論ではなかった。「在るものは在る」──議論の土俵そのものを降りる言葉である。
なぜ降りるのか。論じても在り方が変わらないものについて論じ続けることは、時間の浪費だからである。
そして注目すべきは、この証言の決着のつき方である。議論は決着しなかった。「火の気のない所に火事が出てたまるか」という反論は、正しい推論であった。にもかかわらず、豚小屋は焼けた。議論ではなく、事実が決着させたのである。本書が証明の道を採らない理由は、ここに尽きている。
同じことが、教則本の側にも記されている。
【原典】神への認識は? 『形而上学のすすめ(一)』
⑥反発しても否定しても絶対に適わない、無視できない(勝てっこない)存在。空気や重力や電波と同じように在る物は在り、避けることは出来ない。神佛の作用が無かったら、われわれはこのように存在していない。だから、知らないと損をする存在。
── 出典:形而上学のすすめ(一) 第二部 神、佛とは 第五章「神対人」二.神への認識は?
空気の存在を否定する者はいない。重力を論破しようとする者もいない。神佛もこれと同じ位相にある、というのが原典の主張である。
論議のために聞くな
聞く側の姿勢としても、同じことが戒められている。
【原典】聞法の戒 『心掛け』
5.論議のために聞かず、教えの受持のために聞け
── 出典:心掛け 第四部 実践 第二条件[正しく聞く:正聞]「聞く側 聞法の戒」(当来佛・聞法十戒より)
論議のために聞けば、聞いた内容は自分を変える材料ではなく、相手を負かす材料になる。それでは何年学んでも生活は一寸も動かない。
空理空論ではない──だから「実践哲学」と命名された
【原典】はじめに 『実践』
この形而上学も同様で、従来の哲学のように学者同士の机上の空論では全く役に立たない。当来佛は、この形而上学を「実践哲学」と命名され、実際に実行し生活に役に立つ、すると生活が改善され、生き甲斐を持てる学問ということを強調された。「実践可能で」「実践するための」、また「実践によって深まり」「実践によって効果が上がる」哲学、だから実践哲学であると。
── 出典:実践「はじめに」
【原典】「信仰は気休めだ」 『ご神示』
信仰(宗教)は、空理空論ではない。人々の日々、刻々の生活、運命に関わる重大な学問、知識、観応である。
── 出典:ご神示 第二部 正しい考え 第二章「頭の切り替え」④「信仰は気休めだ」
「実践哲学」という命名そのものが、本書の立場の宣言である。実践できないもの、生活に効かないものは、この学びにおいては学問と呼ばない。
電気を、証明してから使う者はいない
存在を証明せずに利用することは、不誠実だろうか。そうではない。われわれは日々そうしている。
【原典】宗教、信仰の誤解 『ご神示』
未開人が、電気電波の存在を知らず、コンピュータも携帯電話も利用しないで生活するように、これまでは神佛の存在、実体、利用の仕方も全く知られていない。神佛とは、未知のエネルギーの一つで、まだまだ未発見、未利用のエネルギーが存在する。それらを利用すれば、無用な苦は無くなり、研究開発等、生活の効率(有効度)を上げることができる。その利用方法を教えるのが宗教であり、信仰である。
── 出典:ご神示 第二部 正しい考え 第二章「頭の切り替え」③宗教、信仰の誤解
電気の本質を定義できる者は、専門家にも多くない。それでもわれわれは電灯を点ける。先に理解が来るのではない。先に使用が来て、理解は後から追いつく。本書が扱うのも、この順序である。
そして、この学びが求めるのは思弁ではなく体験である。
【原典】神への認識は? 『形而上学のすすめ(一)』
②初めに信じないと、応えてもらえず、反応が無く、分からない存在。人の慢心、傲慢に気づきを与えるため、人間が心を開き、教えを請わないと、絶対に反応されない。③自分で体験しないと、絶対に理解できない存在。神佛の存在、力、法則、意図は奥深く、初歩の体験から中、上…と、無限の広がりと高みを持たれている。
── 出典:形而上学のすすめ(一) 第二部 神、佛とは 第五章「神対人」二.神への認識は?
形而上学・宗教・哲学は、同じものの別名である
ここで、本書が用いる語の関係を明らかにしておく。世間の用法とは異なるため、あらかじめ断っておく必要がある。
【原典】形而上学と宗教 『形而上学のすすめ(一)』
形而上学は、即ち宗教だ。また形而上学、宗教、哲学は同意語で、これらは大自然の法則を説いたものだ。
形而上学=哲学=宗教=大自然の法則(当来佛)
── 出典:形而上学のすすめ(一) 第一部 形而上学 第五章「形而上学」二.形而上学と宗教
三者は上下の関係にない。一つのものに三つの呼び名があるにすぎない。ただし、ここで言う「宗教」は、拝む・頼む・参るといった行事行法を主体とする既存の宗教団体の営みを指さない。
【原典】形而上学と宗教(続) 『形而上学のすすめ(一)』
ただし宗教といっても、これまでの宗教団体で行われている、拝む、頼む、参るといった、行事、行作、行法を主体とした内容ではない。これらは宗教のごく一部の行法であって、生活に役立つものではない。真の形而上学、真の宗教は、学問で、学び、思惟、錬磨しなくてはならない。
── 出典:形而上学のすすめ(一) 第一部 形而上学 第五章「形而上学」二.形而上学と宗教
では科学との関係はどうか。これも上下ではない。対(つい)である。
【原典】形而上学とは 『実践』
形而上学とは、形而下学に対する言葉で、世の中の研究をすれば、物理的、化学的、数学的な現象で捉えられる形而下の分野と目に見える現象、数字などでは捉えられない精神的、心理的な形而上の分野に分かれる。
── 出典:実践 第一部 受ける「形而上学とは」
【原典】形而上学は学問 『形而上学のすすめ(二)』
形而上学とは、物理や化学と同様、学問である。物理、化学等の学問は、研究したことが工業製品等に生かされ、日常生活に反映されている。物理や化学、医学が物事の仕組みを知り、仕組みを活かすことで生活が便利になると同様に、形而上学も見えない世界の仕組みを知り、日常生活に活かし、生活を豊かにするのである。
── 出典:形而上学のすすめ(二) 第三部 形而上学から見た社会「形而上学から見た宗教」
科学が見える世界の仕組みを扱い、形而上学が見えない世界の仕組みを扱う。扱う領域が違うだけで、仕組みを知って生活に活かすという学問の作法は同じである。本書が「形而上学は哲学であり、科学である」と言うのは、この意味においてである。
原典は、この関係を一行で示している。
【原典】形而上学と宗教 『実践』
大自然の学問(法則)=形而上学・形而下学=宗教・哲学
── 出典:実践 第一部 受ける「形而上学と宗教」
基礎であり、同時に、形而下の上に成り立つ
形而上学は、あらゆる学問の基礎である。
【原典】形而上学と宗教 『形而上学のすすめ(一)』
形而上学は、あらゆる学問の基礎(当来佛)
── 出典:形而上学のすすめ(一) 第一部 形而上学 第五章「形而上学」
【原典】形而上学と宗教 『実践』
宗教とは、あらゆる学問の基礎学問で、形而上と、形而下を加味し上手く配合しながら学ぶべきものである。
── 出典:実践 第一部 受ける「形而上学と宗教」
同時に、形而下の上に成り立つものでもある。
【原典】形而上、形而下の両立 『形而上学のすすめ(一)』
ただし形而上学は、形而上だけの一方的な理解では成立しない。形而下の学問や形而下の法律、常識、習慣の上に成り立つのが形而上学だ。形而下を無視しては、形而上学は常識をはずれたものになってしまうし、また形而下が優先される場合、形而上を優先して考えなくてはならない場合等、考え方、物の見方、判断の仕方において形而上、形而下の加味配合、バランスのとり方が重要となる。これらは数字で表わされるものでも、まして計測機で示されるものではないのだ。実践し、体験により体得するしかない。
── 出典:形而上学のすすめ(一) 第一部 形而上学 第五章「形而上学」四.形而上、形而下の両立
この二つは矛盾しない。原理としては、形而上学があらゆる学問の根本に在る。実践としては、形而下の法律・常識・習慣を踏まえた上でしか成り立たない。根が下にあることと、幹が地上の条件に従って伸びることとは、互いに背かない。
見えない世界の話をするからといって、法律を無視してよいことにはならない。常識を捨ててよいことにもならない。この加味配合を守らないものを、本書は形而上学と呼ばない。
本書の立場
以上をもって、本書の立場とする。
神佛が在るかどうかは、これ以降、問わない。問うのは、在る神佛がどのように能いておられるか、そして人はその能きの中でどう生きるか、その一点である。
第一章から、その「決まり(法則)」の姿を見ていく。