神を掴む道

当来佛の教えを心で読む

ただ一人歩き出す

これまで私は勘違いをしていました。原理原則や法則の知識を身に着ければ楽になると。しかし、それは逆でした。また霊観修行を身に着ければ楽になると。しかし、これも逆でした。では二つの両輪を回すがごとくの修行ならどうでしょう。それでもうまくいきません。何が間違っているのでしょうか。

そして私は気が付きました。原理原則や法則も霊観修行も神を掴む道に必要なもので、その修行そのものが目的ではないのだ、と。

これに気付いたことで、私の教本は一気に趣を変えました。タイトルを、「当来佛の教えを原理原則で読む」から「当来佛の教えを心で読む」に変更します。

当時はこの勉強を形而上学と読んでいたのか、実践哲学と読んでいたのか、記憶も定かではないが、お話を聞きに行くきっかけは、私の不治の病の病状改善を願ってのことである。ゆえに世にいう祈祷信仰に近いものであろうことは予想していた。しかし、そこで出会った学びを続けて10年。私の不治の病は確かに消えた。

私も学びを10年重ね、この教えを次の世代へ伝えて行きたいと願った。そう思うのは私だけではなかった。
しかし、その願いを実践することは意外に難しいことであった。伝える内容が難しいという本来の意味もあるが、それ以上に、師の残した遺産が時の経過とともに、薄められたり、分散したり、あるいは歪められたりすることのないように保全する何らかの処置が必要なのであるが、これが全く機能しておらず、様々な解釈、様々な意見、様々な思い、などによる混乱や迷妄の中にあると言ってよい。

私は正直、この渦中の中での学びは好まない。故にただひとり神の道を行く歩みを選択した。
しかしながら、私の思いは、いつの日か、師の生涯や教えを正確に伝える出版物が世に出て、それも正当なものであるという見分ける方法も付されたものが刊行されるべきである。

またそうした内容を純粋かつ完全な形で後世に伝える目的で設立された組織が必要であろう。

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