教本『大自然の法則と人間の使命』
第五章 必然の中の余地(自由意思)
凡例:金枠=原典(暗記対象・出典付き。主に『形而上学のすすめ(二)』に依る)/灰枠=〔編者注〕・譬え・具体例(原典の言葉ではない)/〔出典:…〕=地の文中の典拠。教義は不変、原典は実在テキストからの引用のみ。
前章まで、「すべては させられている」と見てきた。すると当然、一つの問いが起こる──「すべてが『させられている』のなら、努力も改心も、教育さえも要らないのではないか。成るようにしかならないのではないか」と。
しかし、そうではない。この問いに、当来佛は正面から答えられている。
【原典】当来佛の答え(自由意思について) 『形而上学のすすめ(二)』
〔問い〕「全て、させられているのなら?成るようにしかならないのではないか?」「人間の注意や配慮、その上、改心や努力、それに教育などは必要ないのか?」「そして努力や苦労は、何のためにさせられるのか?」。 〔答え〕「こころ、心掛け、考えは、お前たちのものだ」「善い心掛けのものは、善いようにさせられ、悪い心掛けのものは、悪いようにさせられる」。
── 出典:形而上学のすすめ(二)
この答えの鍵は、「宿命」と「運命」の区別にある。
・宿命:生まれ・性別・境遇・能力といった、与えられた枠。これは変えられない(=させられている)。
・運命:その枠の中で日々めぐってくるもの。これは心の持ち方と行いによって刻々と変わる──はじめから、そう変わるように指令が出ている。
つまり、自由がまったく無いわけではない。「宿命」と「運命」という枠の中で、何を思い、どう受けとめるか──その心掛けだけは、自分のものである。善い心掛けの者は善いようにさせられ、悪い心掛けの者は悪いようにさせられる。ゆえに当来佛は「誠実な努力が、運命を変える」と説かれた。出来事に意味があるのは、その意味を受けとり、心を改めることができるからだ。知らせに気づき、行いを改めれば、知らせはやむ。なお、一気に進ませないのも大自然の能きである。「一気呵成、一挙に物事が進まないように、神佛によって仕向けられている。これが均衡矯正作用である」〔出典:実踐哲学の学び(その2)〕(第二章「歪みは矯正される」)。
〔編者注〕 前章では「考えること・心に思うことも、すべて させられている」と述べた。本章の「心・心掛け・考えは、お前たちのもの」と、同じ“考え”の語が両側に置かれ、一見ぶつかって見えるかもしれない。一つの見方として、外から浮かんでくる『思い・考え(材料)』と、それをどう受けとめ育てるかという『心掛け(構え)』を分けて捉えると、この緊張はほどける。ただし、ここではあえて答えを一つに定めない。どう受けとめるかは、読者それぞれの探求に委ねたい。
要するに、自由意思は「無い」のではない。宿命という変えられない枠の中で、運命を動かせる“心・心掛け・考え”だけは、自分のものとして与えられている。だから「させられている」世界でも、知らせに気づいて心を改めること──すなわちさとりと努力──が意味を持ち、「誠実な努力が運命を変える」。さとりは“不要”どころか、人に残された唯一の能動なのである。
宿命と運命は、第八章で原理原則の語によって見る。
この章の要点が図15である。心掛けという、人に残された唯一の能動が、次章の三法印、すなわち知らせを扱う三段へとつながる。
図15の読み方
図15は問いと答えの形で読む。問いは「全て、させられているのなら?成るようにしかならないのではないか?」「人間の注意や配慮、その上、改心や努力、それに教育などは必要ないのか?」。当来佛の答えは「こころ、心掛け、考えは、お前たちのものだ」「善い心掛けのものは、善いようにさせられ、悪い心掛けのものは、悪いようにさせられる」。鍵は区別である。「宿命 ── 与えられた枠。これは変えられない」(生まれ・性別・境遇・能力)。「運命 ── その枠の中で日々めぐってくるもの」で、「心の持ち方と行いによって刻々と変わる」。だから「心・心掛け・考え」だけは自分のものとして与えられており、「心掛けが、運命を動かす」〔出典:形而上学のすすめ(二)〕。
