教本『大自然の法則と人間の使命』
第七章 法則を日々に守る ── 二つの入り口と戒
凡例:金枠=原典(暗記対象・出典付き。『諸法の原理原則』を主、『善戒、禁戒』を従とする)/灰枠=〔編者注〕・譬え・具体例(原典の言葉ではない)/〔出典:…〕=地の文中の典拠。教義は不変、原典は実在テキストからの引用のみ。図6(第二章末)=理・則の標題と頁の対照。
霊観への二つの入り口
前章の三法印の第二段「御意趣を解く」には、霊観──見えない次元からのひらめき──が要る。だが、この霊観こそ最も受けとりにくい。そこで、誰でもそこへ近づけるよう、二つの入り口が用意されている。ご神示(天に問う方法)と、絵姿(見えない真理を姿形で表す方法)である。
問題が起きたら、自分勝手に悩まず、この二つを手がかりに霊観を受け、法理と現実に照らし合わせる。三つがピタリと合ったとき、「ああ、そういうことだったのか」という揺るぎない納得(さとり)が生まれる。これは、前章で見た「正教の条件(霊観・法理・現実の三位一致)」に、実際にどう入るかを示したものである──霊観の入口が、ご神示と絵姿なのだ。
貧・病・争への当てはめ
第六章で見た「貧・病・争」に、この二つの入り口を当てはめると、こうなる。
・病:重い病に襲われたとき(現象)、ご神示・絵姿で「先祖のルーツを知れ」「長男としての使命を果たせ」という意図を受け、自己の住位と分限・感謝と報恩の法理と突き合わせ、「宇宙の則に逆らって自分勝手に生きてきた」と気づいて生き方を変えると、病という知らせが薄らいでいった。
・貧:困窮(現象)に「長幼の序」「謙虚」の意図を受け、「豊かさは、礼節を知り、身に着けるから生まれる」という法理に照らして、「恐れるばかりで責任を忘れていた」と気づき、貢献に転じると状況が好転した。
・争:衝突(現象)に「己の心を鏡とせよ」「他者は我が身なり」の意図を受け、「争いは、その関係に自己の心が映ったもの(合わせ鏡)」という法理に照らして、「相手の嫌な所は、許せていない自分自身だった」と気づいて省みると、争いが調和に変わった。
三つの苦は、どれから解けばよいのか。この問いに、原典は、人間の考える順とは別の順があると説く。まず、「理外の理」「利外の利」とは何かである。
【原典】理外の理と利外の利 『新ご神示』
理外の理とは、辞書によると、「普通の道理や常識では判断のできない不思議な道理」とある。
人間の考える理論以外の理や理屈、道理があるという意味で、大自然が運営される法則による結果である。
利外の利とは、辞書にはないが「普通の道理や常識では判断のできない不思議な利(利益)」となり、まさに、形而下の利(理)を超えた大自然の法則が能いて下さっての結果、ご利益である。
理外の理
大自然(形而上)の法則の教えで、ご神示に遵い、させて頂くという考えになると、人間の考える理屈を超えて、「如意」善いようになっているという道理である。
如意とは、(自分の)意の如くなるという意味だが、大自然のご指示に従い、法則を実践していけば、一見自分の考えや計画とは違っても、結果的には善くして頂け、自分が願った以上の状態になっていく。
自分だけでなく、家族や周囲の状況も善いように変化するのである。
人間の苦には、「貧」「病」「争」がある。
苦の解決には、大自然の法則を本にしないと考えを改められないから難しい。
── 出典:新ご神示(令和8年版)第五部 補足 第5章「理外の理と利外の利」160頁
この「理外の理」の例として、原典は、貧・病・争を解く順番を挙げる。
【原典】貧・病・争を解く順番 『新ご神示』
例1
人間的には、まず「貧」を解決しよう、そうしてゆとりができると「争い」を解決しようと考える。
しかし、大自然の理は違っていて、まず「争」が解決しないと「貧」は解決させてもらえないのだ。
かつて、中国では「衣食足って、礼節を知る(菅子)」と言った。
ところが、大自然の法則は反対で、「まず、人が人として礼節を知ることが始まりである。それによって大自然が能かれ、衣食が足るようにして頂けるのである」(当来佛)
つまり、心、考えが違うから貧になり、病にも争にもなりかねない。
*礼節:礼義と節度
*礼義:人が行うべき礼の道。節度:決まり、定め、おきて。
例2
さらに自分の「病気」が解決したら、仕事もできるし「貧」は解決する。
そうすると、「争って」いる人にも会えると考える。
大自然の法則の順番は違い「まず争いを改めよ」と教えられる。
心を変え、争いを解決しなくては病気もよくならないし、貧も解決しないという例もある。
特に、「病気と心の関係は100パーセント」(当来佛)と言われている。
大自然の運営は、社会の健全運営、相互扶助、社会浄化、勧善懲悪に能いておられることを忘れてはならない。
(貧や病は一人個人の問題でもあるが、争は双方、多数に影響をもたらす。社会公共の悪でもある)
「理外の理」にもとづき「理外の利(利益)」も生まれ、経済面では同様の意味で「日計足らずとも、歳計余りあり」という諺もある。
── 出典:新ご神示(令和8年版)第五部 補足 第5章「理外の理と利外の利」161頁
〔編者注〕 貧・病・争のうち「争が先」と解く順番を明示した文は、『新ご神示』のこの箇所に見られる。『諸法の原理原則』と原典19本を検索した範囲では、同じ言い方の文は見つからなかった。一方、礼節が先で衣食があとという向きは、『実踐哲学の学び(その3)』にも「礼節を尊ぶ故に、衣食足る」とある〔出典:実踐哲学の学び(その3)〕。「理外の理」「利外の利」の語は『心掛け』にもある〔出典:心掛け「理外の理」〕。
貧・病・争の原因と対処法を、原典の文で一枚に並べたものが図17である。
図17の読み方
図17は三つの段に読む。上の枠は三つに共通するくくりで、原典は貧・病・争の根にある無駄を「冗(むだ)」と呼び、それを省くことを対処に挙げる。次の緑の枠は解く順番で、人間は「貧」から解こうと考えるが、大自然の理は違い、まず「争」が解決しないと「貧」は解決させてもらえない〔出典:新ご神示 第五部 補足 第5章 161頁〕。下は貧・病・争の三つの行で、左が原因、右が対処法である。青い点は原典(諸法の原理原則と原典の経典)、緑の点は新ご神示の文で、どれも原文のままである。原典の文が結んでいない線は引いていない。

結び──貧・病・争は、打ちのめすための罰ではなく、より高い生き方への招待状である。出来事に一喜一憂するのをやめ、知らせを受け、御意趣を解き、実践してさとる。これが「させられている」世界で人に許された、ただ一つの能動であり、形而上学を生活に活かすということなのである。
第一部のまとめ ── 暗記の土台
第一部の締めくくりに、各章で引いてきた根本の原典を、暗記の土台としてそろえておく。まず、すべての出発点となる第一章「実在」の五理である(全文は第一章参照。標題と頁は第二章末の図6「諸法の原理原則の地図」を参照)。
〔出典:諸法の原理原則 第一章「実在」10〜20頁。基礎の暗記と習得の対象)
さらに、集団・社会で多くの人が互いに心地よく生きるための心掛けとして、当来佛は「処世の術」を教えられた。これも基礎の暗記と習得の対象である。
【原典】処世の術(集団・社会で心地よく生きる心掛け) 『形而上学のすすめ(二)』
・長幼の序を守る ・廉平謙虚を心掛ける ・信義を守る ・親疎の別に心掛ける ・衛生の弁に気をつける ・公私の別と社会奉仕に努める
── 出典:形而上学のすすめ(二)「処世の術」58頁
六つの心掛けを、原典の解説とともに図18に示す。日々を生きる指針として、手元に置いておきたい。
図18の読み方
図18は六つの枠で読む。「集団、社会で多くの人が互いに心地よく生活をするために、当来佛は、次の心掛けを教えられた」。一「長幼の序を守る」──「弱肉強食、下克上は社会の秩序を乱す」「年長者を大切に思い、幼少者をいたわる」。二「廉平謙虚を心掛ける」──「廉とは潔いこと、慾が無いこと、平は平等なこと」「へりくだり自分は控えめで、他人に譲る」。三「信義を守る」──「人間同士の繋がりは、信頼と義務」。四「親疎の別に心掛ける」。五「衛生の弁に気をつける」。六「公私の別と社会奉仕に努める」。六つはどれも、相手と場に合わせる心掛けである〔出典:形而上学のすすめ(二)「処世の術」58頁〕。

戒 ── 法則を身・口・意で守る
処世の術は、日々の心掛けである。その心掛けを「すべきこと」「してはならないこと」という形にしたものが戒である。戒は人が思いついた規則ではない。原理原則から導かれる。
【原典】原理原則から戒が生まれる 『諸法の原理原則』
「原理、原則に照らし合せてみて、『人間は、かくあるべき…』ということが分かると、戒(善戒、禁戒)や道徳(真の道徳)が生まれて来る」
── 出典:諸法の原理原則 あとがき 145頁
だから本書は、戒を原理原則から見る。戒そのものの説き方は『善戒、禁戒』に詳しい。まず、戒とは何かである。
【原典】戒とは 『善戒、禁戒』
法が在るからその効果を示す「戒」が出来、戒を実施するからわれわれは守られるのだ。
戒と法は裏表の関係で、法則と同様に、戒によって守られて生活が出来るということを知らなくてはならない。
── 出典:善戒、禁戒 前章「戒とは」
その戒は、人が作って人が裁くきまりではない。
【原典】戒と律 『善戒、禁戒』
戒は、自然法(道徳)に基づく、大自然(神佛)による規整、制約、制限、そして裁きで、戒めは大自然が行われる決まりである。
別言すれば、自然調節制御作用の1つである。
── 出典:善戒、禁戒 前章「戒と律」
〔編者注〕 「自然調節制御作用」は第二章で見た原理原則の語で、原理原則はこれを「御守護」と呼ぶ〔出典:諸法の原理原則 第二部〕。戒は縛るものではなく、守るものである。
そして、この戒は僧のためのものではない。
【原典】在家の戒 『善戒、禁戒』
これから示す「戒」は在家の一般人が守るべき日常生活の中での決まり事である。
── 出典:善戒、禁戒 前章「在家の戒」
守る場所は、日常の身・口・意である。
【原典】形而上学の戒 『善戒、禁戒』
身、口、意において実践しない事には、自分も善くならないし周囲も善くならない。
無論、大自然(神佛)も能いては下さらないので、善くならない。
── 出典:善戒、禁戒 前章「形而上学の戒」
〔編者注〕 「身、口、意」は原理原則の語で、大自然が人身を藉りて示現される三つの口である〔出典:諸法の原理原則 第一章「大自然(神、佛)の藉身」〕。神佛が身・口・意を通して能かれるのと同じ道を、人は身・口・意で歩む。
なぜ身・口・意なのか。それが業だからである。
【原典】業とは 『善戒、禁戒』
*業:身、口、意の事で、前世、前前世での行為や言葉、思いにより集積され、自身が継続して持ち続けているデータのようなもの。
── 出典:善戒、禁戒 第一部 善戒「夫婦としての善戒」の注
その業は、今の境遇をつくっている。
【原典】業の因縁果 『善戒、禁戒』
「人間には、それぞれ前世があり、善悪の業をなして積み重ねている。故に今世において、その過去世の業の因縁果の応報として、それに似合った最適の父母の処に生まれ出される。前世からの親子ではない」(当来佛)
── 出典:善戒、禁戒 第一部 善戒「親としての善戒」――親とは――
第四章で見た「万有、諸行は因果応報する」「因果応報は、応は『縁』であり、進行形である」は、そのまま人の生き方に当てはまる。今日の一つの判断、一つの言葉、一つの思いが業として積まれ、縁を得て果になる。だから戒を守るとは、いま積む業を選ぶことにほかならない。
では、守れば、どうなるか。
【原典】戒は御守護 『善戒、禁戒』
「戒は、徳を高めるための修行」(当来佛)
「徳が有れば、戒は不要になる」(徳の高い人は日常でぴしゃりぴしゃりやられる。徳の無い人は一度にドンとくる)
「日常が戒や律の訓練である」
「自戒することが大切である」
と教えておられる。
「徳の結果が福」である。
── 出典:善戒、禁戒 前章「戒は御守護」
〔編者注〕 「徳」は原理原則も同じく説く ──「大自然の法に適ったことをすることが、『徳』である。『徳』の因が、善」〔出典:諸法の原理原則 第三章「徳と善」〕。戒を守る → 徳が高まる → 福となる。この筋は両書で食い違わない。
戒は二種に分かれる。
【原典】善戒と禁戒 『善戒、禁戒』
一般に知られるしてはいけない禁止行為の「禁戒」と、しなくてはならない、するべきことの「善戒」だ。
── 出典:善戒、禁戒 前章「善戒、禁戒」
守らせる側から見ると、自分の考えや心掛けで制御する自戒(自律)と、他人から、また大自然(神佛)から制御される他戒(他律)がある。他戒は、知らせ・合図の形で掛かる。第三部で扱う「知らせ」が、まさにそれである。
最後に、戒に呑まれてはならない。
【原典】戒の偏向 『善戒、禁戒』
「戒が多すぎると、小乗になる」と仰せだ。
法を学び、規則を知るがゆえに、自ら律していくのが、形而上学の姿勢である。
── 出典:善戒、禁戒 前章「戒の偏向」
受戒とは、決まりを増やすことではない。法則を、自分の身・口・意に引き受けることである。そして守ることが、そのまま御守護を受けることになる。個々の善戒・禁戒の中身は、第七部(第二十九〜三十一章)で扱う。
この学びは、教学と霊観行の二つの分野に分かれる。学び方はそれぞれ違うが、車の両輪のように、両方を同時に進めなければならない。その関係が図19である。
図19の読み方
図19は、教学と霊観行を車の両輪として並べた図である(編者の見方)。原典は「教学(理論、戒律、教え)と霊観行(形而上、下)がある」「教観両面(形而上下)の併行学問である」と説く。左の輪が「教学」で、「道理・道・道徳」「教え・戒律」「法則」「諸法の原理原則・定理」を学ぶ。右の輪が「霊観行」で、「ご神示」「絵姿」「観能・観応」の実際である。両輪という言い方が示すとおり、学び方はそれぞれ違うが、片方だけでは前に進まない。中身は勉強会の初心者用資料の「教学イメージ図」を写した〔出典:形而上学のすすめ 第七章「当来佛の教え」〕。

──ここまでが第一部「大自然の法則」である。見えない世界の存在に始まり、法則の性質、形而上と形而下、因果応報と必然、その中の余地(自由意思)、生活への活かし方、そして霊観への入り口まで見てきた。次の第二部では、この法則の中で「人間とは何か」を見ていく。