教本『大自然の法則と人間の使命』
第十九章 絵姿──身体を通じた神佛の指示
凡例:金枠=原典(暗記対象・出典付き。主に『実踐哲学の学び(その2)』に依る)/灰枠=〔編者注〕・譬え・具体例(原典の言葉ではない)/〔出典:…〕=地の文中の典拠。教義は不変、原典は実在テキストからの引用のみ。
絵姿とは何か
「絵姿(えすがた)」とは、言葉の代わりに身体の姿・形で表現し、相手に意思を伝える「身振り」「手振り」のことだ〔出典:実踐哲学の学び(その2)〕。
人間の問いに対し、神佛がお応えを頂く際、神佛の力で人間の体を自在に動かして、一定の形で示して頂けるものだ。
物言われぬ神佛は、お考えを表現するため、神佛が人間の身体に力をかれ、身振りで細かく・姿かたちにされる。神佛からすれば「御考えを絵にされるような方法」だから「絵にした姿で教える」の意味で「絵姿」という。
絵姿の始まりは、昭和二十年代末、当来佛が教えを説かれ始めた頃のこと。当来佛が神佛に「(神佛の)ご意趣を、(皆に)分かり易く教えてください」とお願いされると、突然、側に座っていた同修の婦人の手が動き出したという。それ以来、神佛のご意趣を教えて頂く場合に、こちらがお願いすれば即座に本人や他人の身体を使った「身振り」で表されるようになった。
絵姿の目的
絵姿を頂く目的は、さとるためだ。
さとるには神佛のお考え・ご指示を知り、それを実行する。神佛からの「知らせ(合図)」の意味を知るために「姿」「形」に具体的に表わして頂き、神佛の言わんとされる「ご意趣」の解明をする手段の一つだ。
絵姿は占いではない。
「吉凶の判断をすること」が占いで、「当てもの」とは分からないことを霊感で当てること。これに対してさとりとは「差とり」で、神佛のお考えと人間の考えの「差」を「とる」ことだ。
【原典】絵姿は占いではない 『実踐哲学の学び(その2)』
「吉凶や予想が当たっても、救われないと意味が無い」(当来佛)
── 出典:実踐哲学の学び(その2)
〔編者注〕 「さとり=差とり(差を取る)」は当来佛の教えで、第二十二章(第五部)で詳しく説く〔出典:第五部/実踐哲学の学び(その2)〕。ここでは絵姿が占いと異なる点を示すために触れた。
また、絵姿はご神示(神勅)であるから、頂いた内容を無視・放置したり見過ごしたりするのは不敬にあたる。頂く際は「実行」「実践」が条件だ。
絵姿の特徴
適確な観応:神佛が第三者を通じて示して下さるので、自分の感情や思いなど人知が入らない観応だ(無論、理解・帰依の程度による)。
語り口調:「あなたがしこっていてはいけません」「あなたは誰々に対して話しをしなさい」と、主語・述語がはっきりして、まるで語り口調のように問題点を指摘され「どうすべきか」を分かりやすく教えて頂ける。
具体的:「心から」「感謝しなさい」「まず和合しなさい」「話をしなさい」「墓参りしなさい」と、人間からすれば見当違いのようなことを指示される。しかしそのことの効果は、病気が改善する・人間関係が善くなる・生活が潤うなど、「思いがけない展開がある」と多くの体験者は語っている。
場所・人を選ばない:どこでもいつでも、誰にでも頂ける。
絵姿とは何か、原理原則のどこに座るのか、四つの特徴、そして頂く心得まで ── 本章の全体を図41に掲げる。
図41の読み方
図41は二段に読む。一段目は絵姿とは何かで、「『絵姿』とは、言葉の代わりに身体の姿・形で表現し、相手に意思を伝える『身振り』『手振り』のこと」。「神佛の力で人間の体を自在に動かして、一定の形で示して頂けるもの」であり、「御考えを絵にされるような方法」だから「絵にした姿で教える」の意味で「絵姿」という。二段目は、それが原理原則のどこに当たるかである。「大自然は、時として人身を藉りて、身、口、意に示現をするが、決して人間そのものでも、人間の魂魄、霊ではない」── 藉身である。さらに「『報化身』とは、神佛が…人身を藉りて身、口、意を通じて示現する」〔出典:諸法の原理原則 第一章 12〜14頁/第二部 第三則の細目〕。

絵姿と恥
「もし、あのことが出たら困る」「あのことを言われても、自分にはできない」と考える人は多い。
しかし神佛は「本人に恥をかかせるために」「本人を困らせるために」絵姿を出されるのではない。あくまで「さとらせ」「助けるため」「救うため」なのだ。
「神様は、褒められることは無い!」と当来佛は仰せだった。絵姿の何処にも褒められる形は無い。いわば欠点を指摘され、是正していただくのだ。
【原典】隠さずに出す 『実踐哲学の学び(その2)』
「隠したら、隠しただけの内容しか教えていただけない」「隠したら損だ」(当来佛)
── 出典:実踐哲学の学び(その2)
二つの入り口は、同じ応答への別々の入り方である。違いと共通、そして出口がどこへつながるかを図42に並べた。
図42の読み方
図42は三段に読む。上段は二つに共通する土台=観能と観応で、「観能があるから、応じたのが解るのである。応と能は、一連のものである」。中段は二つの入り口の対照である。ご神示は、心や頭の中で思い、答えを指に示して頂く。人差し指が可、小指が不可で、得られるのは「可否」「善悪」の判断と最善の方途であり、支える則は第二則「能きは即応」──「大自然の動き、能きは、時、所を問わず、「心」に念じれば、「即時」に観能(応)する」。絵姿は、神佛に「(神佛の)ご意趣を、(皆に)分かり易く教えてください」とお願いし、身体の姿・形で示して頂く。媒体は本人または他人の身体で、原理原則では「藉身」に当たり、第三則の細目は「絵姿も報化身である」と言い切っている。共通は六つ ── 神にさせられる、心が基礎、時・所を選ばない、占いではない、実行が条件、程度に比例する。下段は出口で、受けた霊観は必ず法理と現実に照らす。「教理、法理に基づかない示現は、程度の低いものである。何故なら、大自然は法則を本に、法則通り能かれるからである」。三つが一致して初めて、正しい意図と認める〔出典:諸法の原理原則 第一章の細目/第二部 104・107・134頁/実踐哲学の学び(その2)〕。
