練って、ご神示を立てていますか?
人には、それぞれの性質・性格があるが、それは「生まれ持った気質(業)」と「育った環境や経験」によって心(感情)の基礎が形成されていきます。
例えば、会話においてサイコロボール(感情)を、10人に同じように投げたとすれば、タイミング、場所、相手の能力によって喜怒哀楽愛悪に分かれ、10人がそれぞれの受け止め方をするのではないですか?
なぜなら、考え方、捉え方、また心の感じ方も違うからではないでしょうか?
「喜」を投げても喜ぶ度合いが異なる、あるいは「怒」で受け止める等、心を傷付けてしまい、相手から嫌わる、恨まれるようなことも起こるのです。
まず時、場所、所の環境を考える、さらに相手の状況を考える。
そして相手に会ったなら、先ずは相手の人の話をよく聞く、最後までよく聞き、何を言っているのか?何を言おうとしているか?を知ることが必要なのです。
「実践とは、相手の心を知ること」(当来佛)
そして、その人の気持ちに「成りきる」ことが必要になってくるのです。
それが、出来ないのなら軽はずみに下手なことは言ってはならないのです。
相手と面と向かう時、初対面の人、いつもの仲間、家族、それぞれ対応の仕方は異なるけど、短い時間でその日のその場での様子を知らなくてはならない。
何も考えず「ご神示したら、上手く行くから…」と教えられているが、形而下の情報が多いほど、判断の仕方、選択の方法が多岐に分かれ、正鵠度を増す。
その上、思い込みや、慾、面子も無くさなくてはならないし、計算した慾(我計)、甘え、望み、喜怒哀楽愛悪の感情を横に置いてのご神示である。
今のご神示は「自分の慾が入って、勝手なご神示をしている」(当来佛)
何も情報が無くて「良いですか?」「悪いですか?」のご神示は、物当てである。
相手の気持ちが分からないのに、「ご神示」して指示を頂いても上手くはいかないのです。
大自然は言う、「練る」ということを忘れていませんか?
相手のこと、様子、外見を見る、話しを聞く、考えを知る、そして、気持ちを考え、心を掴み、それが出来て「ご神示」で「どう対応するか?」「言うべき?」「言わない方が?」「するか」「しないか?」と伺いしていかなくては、人の心には寄り添うことが出来ない。
そして、あらかじめ下調べをしたり、情報を得たりする、形而下の努力は必要である。
手抜きと冗の排除とは、意味が違う。
能率増進はしなくてはならないが、努力や手間を省いてはならない。
「ご神示」があるから、ご神示通りにすれば良いではなく、「どのようにお伺いするか?」考えて、ご神示しなくてはならなのではないでしょうか?