2026年8月18日(火)「善は、自分で掴むもの?」

学び・実践

「善は、自分で掴むもの?」

今、生きている私たちは、「自分の意志(選んで)」でこの世に誕生したのではないという真実は分かっているだろうか?
また、いつの間にか「自分で生まれ、育った」という、大きな勘違いに変わって行ってはいないだろうか?
この世に誕生するための時、場所を与えて頂き、そして宇宙に浮遊する「魂」を吹き込んで頂くための男と女(親)を用意して頂き、人間としてこの世に生(命)を受けさせられている。
そして、与えられた宿命の中で「心」が作られ知識、感情、意識を持つようになっていくのであるが、その心にある感情を、「善にするのか?」「悪にするのか?」は、心を遣う本人の考え、知識、意識に任されている。
では、自分の感情(サイコロボール)を、どの様に使って行くか?
それが、運命の分かれ道となり、苦や楽、喜や怒等、色々なことが自分に返ってくるのである。
この世に生きる限り、この法則から逃げることは出来ない。
なぜなら、日々人間は、自分の感情を使わない時は無いからのである。
寝ていても心は動いているのではないでしょうか?
(気になること、心配すること、逃げたいことから心は離れられないから)
大自然は言う、この世に生(命)がある限り、気が付く、気が付かないに関わらず知らせ(合図)は、人類全員に平等に送られている。
痛い、かゆい、眠い、寒い、熱い、苦しい、楽しい、嬉しい、嫌だ、腹が立つ等の知らせに、目ふさぎ(見たくない)、耳ふさぎ(聞きたくない)したい時もあるかも知れないが、それは勝手な自我、面子、慾である。
逃して損をするのは自分である。それも結果は自己責任である。
大自然は、「知らせ」を受け入れられない、受け入れないと「自分で決めたなら、それで善いのではないか?」と言われる。
何故なら、知らせを受け入れ、解いて、自分で道を開いていく、自分で変わろうとする、実践する、その心が無いから。
「心は運命だけでなく、本人の命の長さを決める」(当来佛)
そこまでの「心」しか出来ていない、持ち合わせられないのだろうから?
「心」を磨かなければ、「善」は遠く離れていくだけであるからして!
「仏心は有情であり、無情である」(当来佛)
大自然(神仏)は、助けようと、常に手を差し伸べられる。
しかし、その手を握り返すのは、人間の気付きと努力、さらに持続である。
手を放すものは、助けられない。救われない。
自分が素直でないと、堕(お)ちていくだけである。

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