2025年11月26日(水)「思わされる」

人生・幸せ

「思わされる」

 

あなたはこの世に存在し、今、生きている。

ふと何かの拍子に「今の生き方で、善いのだろうか?」と、自分に向かって問い掛けたことがありますか?

また、人生の岐路に立った時に「今の選択で善いのだろうか?」「間違っていないか?」と、我に返って自分に問いかけたことがありますか?

なぜ今、このタイミングで、自分は自分に「問いかけるのだろうか?」「思わせさせられるのだろうか?」と、立ち止まる、立ち止まらされている。

それは、させられている。(明らかに)「思わされて」いるのです。

そんな時、あなたは心のどこかで引っかかっている、納得できないところがあるのに、無理に、無視して納得しようとしているのではないですか(自我)。

大自然」からの「知らせ」「信号(黄色)」「合図」で、もう一度考えなさいという「危険信号(赤色)」なのかもしれない。

大自然」は言う、お前、お前、お前、一人ひとりに「平等」に、霊を受けさせている。

人間は全員、霊を受けさせて戴き、中でも大自然の存在を知る者は「観能」され、「観応」させられている。

「観応」され、思わされている事を、素直に「受け止めて考えるか?」それとも「自我、我知で打ち消すか?」の判断、選択は、それは受け取るその者に、「大自然」は任せておられている。

その人の前世、今世の「業」が能く場合もある。

例えば、帰宅する時、電車から下車しいつも帰るA道を歩こうとする。ふとB道を思わされる、それも大自然からの「知らせ」である。

A道またはB道の「どちらを選択するかを考える?」そこで、「ご神示をするか?」「しないか?」気付かず流され、「いつもの通りA道で帰るか?」その選択はすべて自分自身である。

そのように、人の人生では、常に選択肢は迫っている。

しかし、その小さな選択が長い人生において、自分自身の「運命」を少しずつ動かし、積み重なって善か悪か?安か危か?になる。

これは小さなことだが、人生の岐路においても、重大な選択の仕方の手本になる。

「思わされる」という観応を軽視してはいけない。

それは、「大自然」からのご慈悲で、「思わせて」戴いているのだからだ。

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