「分を知ることから?」
私たちは、実際に目で見たり手で触ったりできるもの、具体的に重さや形があるものや金額で計れるもの、つまり「物質的なもの」に囚われ、惑わされていませんか?
また、目にしたこと、聞いたこと等の表面に現れたものだけを信じ、鵜吞みにするなど「形而下面」だけを捉える考え、行動を取っていませんか?
今、他を無視して、社会情勢を考えず、自分のことを最優先する、自分のために何かを上手くいかせる、自分の得になることばかりを考える人たち、また自分の好きなことだけをして生きていく(我儘)人たちが増えているのではないでしょうか?
本人はそれで良いかもかも知れない。
しかし、それをさせられている、見させられている人はどう考えるのか?
一緒になって、自己中心で、同じ方向に進んでよいのか?
そうではない、必ず何かの反動、反作用、歪の矯正作用が起こる。
それが、ぶつかり合いや人間関係のトラブル、借金、病気などとして現れる。
物事には、形而上と形而下の両面がある。
あなたには形而下に隠れた形而上の心や考え、精神、情、思いなどの目に見えない動きに関心が有りますか?
形而下で現れている「もの」や「現象」には必ず「心」が憑いている。
その心を無視しては、物事は成立しないし、また直ぐに滅びてしまう。
さて、そのような人に限り、災害や何かのトラブルで困る、怪我・病気で動けなくなる、お金に困る(借金)などが起こると、親(義理)、夫や妻、子供、そして、兄弟・姉妹など、家族に頼る、また友達、知り合いまで「助けて」「援助を」と、お願いするようなことになる。
相手にゆとりが有ればよいが、あなたは頼まれる側の、お願いを聞かされる気持ち、持たなくてもよい、考えなくてもよい「自業自得でしょ?」という不快感(嫌な気持ち:悪業)など、形而上で起こる相手の「心」の変化や心の障害を知る由もないでしょう。
つまり、初めに無軌道な考えで起こしたことが、無軌道な結果を生ませるという意味である。
大自然は言う、これまで自分が思うがままに生き、何も大切にしてこなかった、大事に気が付かなったから今、苦(貧、病、争)に追い込まれ、困らされるのである。
もう一度、自分の立ち位置である、何をすべきか?使命は?役目は?何が優先順位なのか?など、「自己の住位と分」を見つめ直すことから始めなくてはならないのではないか?