「心を磨いて、価値がある?」
人は、それぞれ性質・性格が異なっている。
そのため思い・考え方が違い、同じものを見ても好き、嫌いに分かれ、そこから色や形の好き、嫌いに分かれるなど、感情が細かく、細かく分かれていくのである。
異なる人の中で人と人がサイコロボール(感情)の、キャッチボールすれば、心の受け止め方、感じ方が違えば、どこかで嫌な思いをすることがあり、摩擦が起こらないのは不可能ではないか?
その起こった摩擦や和合ずれを解消するため、また今後を上手く行かせる為に形而上学がある。
に能いて頂いて、和合ずれを直そうとする。
実際に、肉親同士の和合ずれ、いがみ合いは解消するのが現実の体験である。
ただしその方法として、「大自然
にただ祈れば、また、自家のお墓参りをして相手と上手くいくでしょうか?さらに、他人に種まきをして相手に謝ったことになりますか?
これでは、いわゆる「(下等)宗教」で、拝み「信仰」と言われるものだ。
世にこのような指導をする団体は多い。供養金を出せ、拝め、祈れ、般若経、題目を上げろなど、愚の骨頂である。
大自然は言う、「ワシ(大自然)は、そのようなことは知らんぞ!」
祈り、墓参り、種まき、供養などをすれば、相手の心を癒すことが出来るだろうか?
それで、奇跡が起こって相手に通じて、上手くいくだろうか?反対に、起こった問題が大きくなっていないだろうか?
冷静に考えれば、相手の心に嫌な思いをさせ、怒らせたなら、まず謝るのが常識ではないか?
何故そうなったのか?自分に非(ひ)が無いか?考え、あるとすれば何が?いつ?どうして?等、原因追及をして、さらに自分を改善しなくてはならない。
そして、どのように謝罪するかを考える時に、大自然の霊(観能)を受けさせて戴き、観応させて戴き、(四適に適い)実行するのではないか?
これこそ「形而上学
ではないか?(目に見えないものを教えて戴くことが)
形而上形而下で、原因の元を修復(実践)しなければ「善」にはならないのではないか?
人のために役に立たせて頂こうとして、学び、心を磨いていくことにより「善」が可能になる。
それがこの世に生(命)を受けた価値ではないか?

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