「法則は、心で感じものである?」
今、何かをしようとする時、何かを決めたい時など、そして行動する時、あなたは必ず「ご神示」を立て、お伺いをしていますか?
当然、自分の考えとは違う「お応え」を頂くこともありますが、大自然のお応えを信じて、また僅かな疑問を持たない、思わないで実行していくことが、出来るか?出来ないか?は、形而上のことになる。
それは、あくまでも自分が考え、自分の責任で行動する時であり、親、職場の上司からなど何か頼まれた時は、「出来ない
「しない」という選択ではなく、「させて頂く
ことが形而下では当たり前で、次に「どのようにさせて頂くか?」を考えなくてはならないのではないでしょうか?(親子:9対1、夫婦:6対4、その他)
そこで、相手と相談したり、法、時、処、才の四適に適うように考え、常識的にも善いか?悪いか?の「ご神示」を立ていくのではないでしょうか?
あなたは、大切なご神示(ご神示、絵姿)の際、報、連、相など形而下の思慮分別を抜かしていませんか?常識、その当たり前を考えながら、形而上(ご神示、絵姿)を考え、上手く使い分け、考え分けて、最後に両立させていかなくてはならないのです。
そのように考えたとしたら、時には自分の最初の考え、強い思いが、後回しになるように「させられている
ものです。
大自然は言う、「諸法の原理原則」を学べば、心の在り方が、また心をどのように使わせていただけば「善」であるかを感じことが出来る。
「善悪の基準」「能き」など法則を知れば、自ずと自分自身(分、住位、合わせ鏡)がどうあるべきは見えてくるから、「心」がどうあるべきかが分かるのである。
また、法則を「心」に感じるから、実践できるのである。
それは他から言われてするのではなく、自ら感じ、自ら進んで律していくものである。(自立、自律、自戒)
それが、あなたは見えますか?感じますか?経典(教典)は「心で読む」とは、そう言うことなのである。
そして「大自然」との関係は、口や文面の約束ではない、「心」の約束である。

コメント